老いるということと良寛さん
“老いる”という事を時々考える、以前、日本画家の堀文子さんが新聞に「老いの哲学」という随筆を載せていた、スクラップがあったはず・・・。
ありました、ありました、記憶の片隅に残っていた記事・・・。
チョット抜粋
『~老いてまいりますと、自分の無能が耐え難くなってきますから。体力とか、動くスピードとか、物忘れとか。自分が崩壊していく音がきこえてくる。~朝起きて、「ああ、生きていた」と息をのむ。水平線まで永遠に続いていた生にパタッと塀が築かれたような、そんな恐怖が二年くらい続きました。でもそれは、頭で考えている死だったんですね。今は違います。死がもう私の細胞の中に入り込んでいる。その感じが分かるんです。五割か、七割か。全部が占領されたときに、終わるんでしょうね。頭で考えた死と違う。暗くない。~』
堀さんは1918年生まれ、義母とちょうど同じくらいの年齢、義母もこんな思いで日々を暮していたんだなと今になって思う・・・そして、私も同じ道を歩いていく・・・。
そんな時、堀さんは“良寛”さんに触れ、共感する。
『良寛ほど澄み切った心境で現代を生きるのは難しいけど、近づくことはできますわね。こびなきゃいいんですから。~画風がどうのなんてどうでもいいの。好きに描く。』
良寛が、弱っていく自分を静かに受け入れて老いを生きるさまを詠んでいるのに、救われたという。。。
“老いが身のあはれを誰に語らまし杖を忘れて帰る夕暮れ”
“夜もすがら草のいほりにわれをれば杉の葉しぬぎ霰降るなり”
“やまかげの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも”
“世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる”
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