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2009年12月

10月の庭-'09

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いつもこの時期になると、キッチリと約束とおりの香りとともにオレンジのかわいい花を見せてくれる金木犀。

“今年もまた会えたね”と、そんな気持ちにさせてくれる木だ。

遠くからはわからないが、丈夫な木の割には花は可憐ではかなげだ。



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もみじのプロペラ。

これで、種子をなるべく遠くに運ぶ。
ここにも、種の保存の形態が。自然の摂理を感じる時だ。




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ハゼの木がだんだん色づいてきた。
ハゼの木だと思うのだが、ウルシかもしれない。
この木の紅葉は目をうばうものがある。もみじの色とも違うし、深く鮮やかな朱の色は、柿の実の色と共に私の足を立ち止まらせる。






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南天の実がすずなりに!
この木もとっても丈夫。剪定をしても、しても、下から芽を出してくる。
今年のお正月用にと、強い剪定をしなかったのでりっぱに成長中。
備前の大鉢に生けてみよう。





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上から見ると、なんだろうと思うが、これは玉スダレの花。
まるで、ヒナが口を開けて餌をほしがっているように見える。





お義母さんは、この花を“筆花草”と呼んでいたっけ。20
“筆花草”のほうがこの花には
似合っていると思うんだけど。










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素朴な味“蒸しまんじゅう”

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出来立ての蒸し饅頭を食べたくて、頑張って挑戦してみた。

これが思いのほかおいしくて、ついつい手が伸びてしまうほどの出来だった。あぶない、あぶない。







作り方もとってもシンプル。

まず、ボールに砂糖(130g)と水あめ(10g)を入れ、湯(80cc)を加えてよく溶かし、冷めるまでおく。その中に、小麦粉(薄力粉200g)とベーキングパウダー(6g)を合わせてよくふるい、一度に入れる。
粉っぽさがなくなるまで、切るようにして混ぜる。練ってはいけない。
パットに小麦粉を敷き、種を取り出し、扱いやすいようにまとめる。
種を等分し、小豆こしあん(出来合いを使った。350g)も等分し、丸めておく。
手粉をして、手のひらの丸みを利用しながら種をのばして、あんをのせ包むようにする。
蒸気の上がった蒸し器を火から下ろし、ぬれぶきんを敷き、その上にわら半紙などを敷き、まんじゅうを3cmの間隔をとって置き、ふきんをかましてふたをぴったりとし、強火で焼く10分蒸す。蒸しあがったら、手にサラダ油をうすくぬり、すだれの上などに取り出して出来上がり。

やはり、自家製は出来立てがいのち。時間がたつと美味しさも半減する。時間がたったまんじゅうは、もう一度レンジであたためると、また美味しく食べられる

伊万里焼風の葡萄蔦唐草の鉢に盛ると、和菓子屋さんから買ってきたように見える。手前みそ?




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新聞連載小説“親鸞” その4 首切られ念仏

時の上皇の怒りをかい、法然門下の遵西と住連の処刑の日が決まり、最期を見送ろうと人々が河原に集まった。
一人の男が刀をふりあげ、遵西の首に振り下ろしたとき、「なむあみだぶつ」と、善信が大声で念仏した。繰り返し念仏し、役人たちがパラパラと駆け出したとき、周囲で遠慮がちに念仏をとなえる声がおこった。その声は、しだいしだいに大きくなっていく。やがて対岸からも念仏の声がわきおこった。
「なも、あみ、だん、ぶ」、「なも、あみ、だん、ぶ」と、念仏の声は地軸をゆるがすように、ますます大きくなっていく。

その時感じた善信の思いが、この小説の基軸になっているように、私には感じる。

“真の念仏とは、法然上人が選択された念仏であり、法然上人の念仏は釈尊の心であり、そして無限無量の大宇宙からさしてくる無碍の光である。
暗い心の部屋の戸をあけて、その光を人々にとどけるのが念仏だ。その光に出会ったとき、人は生まれ変わる。
必ず浄土に迎えるぞ、という仏の約束が信じられたとき、その確信が歓びになる。どんなにつらくとも、生き続ける希望の光が心にさしているからだ。善信は、自分自身がそのことをみずから体験していればこそ、そういえるのである。”
“生きるために殺生する者もいる。暮らすために人をだます男もいる。家族のために身を売る女たちもいる。下人として市場で売り買いされる者もいる。僧兵としてやとわれている男もいる。人殺しを仕事にする武者もいる。法然上人は、この人々のためにこそ易行念仏の道をひらかれたのだ。自分もまた、この人々と共に生きるのだ。”

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