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新聞連載小説“親鸞” その3 選択本願念仏集

綽空は、法然が授けた名善信に改名。師の教えを進めるべく吉水を離れる。

その行動について、叡山にいた時の師慈円と、一緒に修行した良禅が想いを巡らす。

「法然は、区別なく、という立場で人々に念仏を説いております。富者、貧者の区別なく、善人、悪人の区別なく、僧侶、俗人の区別なく、戒、破戒の区別なく、男、女の区別なく、すべて念仏することで救われる、と~しかし、それは法然のたてまえではないか、とわたくしはおもっております。選択とは、きちんと区別をするということではございませんか。本心は選択本願念仏集に。~強きもの、富める者、身分の高きものたちを区別して、世間の大多数の貧しきもの、弱き者たちを念仏ひとつで救おうというのが法然の真意ではありますまいか。悪人ですら往生できるのだ。いわんや善人はもちろんのこと救われる、法然はいったと聞きますが、本心はその逆かもしれませぬ」
これは、わたくしの推測でございますが、と、良禅はいう。「善信は、法然という師の、もっとも忠実な受け手となろうと決意したのではございますまいか~善信ひとりが、吉水をはなれるというかたちで、師の教えを受け継ごうとしているように思われてなりませぬ~師の法然の示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」
「さらに一歩とは?」と慈円。
「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます~善人悪人の区別をつけないということは、この世に生きるすべてのものは、だれもみな心に深い闇をいだいて生きている、ということでしょう。それを悪とよんでもよい。~真におそれるべきものは、あの善信が語っている言葉なのです。われらはすべて悪人である、と彼は人々に説いております。」
慈円は良禅にたずねる。「善信は、どこで、どのような者たちにそれを語っているのか」
「彼は辻説法はいたしませぬ。寺や、市場で人をあつめることもしない。ただ、ひたすら歩き回って、さまざまな顔見知りの男女とはなしをかわすだけです。~きいたところでは、念仏すれば死んだら浄土へいけるか、ときかれて、さあ、いったことがないからわたしにはわからん、と答えたとか」
慈円はそれ以上、なにもたずねようとしなかった。

この良禅という人物が実在するのか判らないが、この問答が今でも頭に残っている。五木さんも書きたかった事の一つではなかったのではないか。

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