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新聞連載小説“親鸞” その2 法然との出会い

毎日欠かさず連載小説“親鸞”を読んでいる。五木さんの文章がわかりやすく、また次の展開を期待さすようなその日の終わり方で、一日のはじまりの楽しい時間になっている。

浄土真宗と聞いてまず思い浮かぶのは、“他力本願”、そのくらいの知識しかなかった私だが、どういう意味をもっているのかも良く解らない。そこで、五木さんの文章で心にとまった所を写してみようと思う。

“吉水の草庵”に集まる人々に向かって語る親鸞の言葉「~阿弥陀仏という仏さまは、この世に生きる哀れな者たちを決して見捨てない、と固く誓われた仏さまじゃ。~わたしは若い頃からたくさんの書物を読んだ。しかし、どうしても納得がいかず、別所の聖となった。そして、ある日、一冊の書物のなかで、はじめてこの阿弥陀仏の誓いを知ったのじゃ。そのときわたしの心と体は、雷に打たれたように震えた。~わたしは大声でその仏の名を呼んだ。感激のあまり、思わず拝んでしまったのだ。南無、阿弥陀仏、とな。~多くの世の母親のなかから、ただ一人の自分の母親と出会う幸せを、選択、という。そしてこの世の哀れな者を一人のこらずすくうぞ、という阿弥陀仏の誓いを、本願という。そのみ仏の本願を信じて、思わず体の奥からもれてる声、それが念仏というもの。声にださねば人にはとどかぬ。ましてみ仏には。ああ、阿弥陀仏さま、あなたさまのお誓いを信じます。そしてひとすじにおまかせします。と誓う言葉が念仏じゃ。仏の誓いと、人の誓いとが触れ合えば、この闇の世に光がさすことは必定。その光に照らされて、はげまされて、われらは生きていくのじゃ。死んでいくのじゃ。~」

吉水で法然の言葉を聞いた日から範宴は毎日草庵に通い、次のように思う。「法然は、万巻の経典の中から、一行の言葉に触れて阿弥陀仏という仏と出会ったという。そして、これまでに学んだことのすべてをなげうって、阿弥陀仏に帰依した。それを法然は、選択、という言葉で語っていた。選択とは、多くのもののなかから一つを選び取ることだ。いや、それだけではない。選択とは、みずからが選び取ったということだけではなく、むこうから選び取られた、という事実も大事なのではないのか。選択とは、選別ではない。~すくわれたい、という願いと、すくいたい、という願いが触れ合って火花が散る。そこにうまれた光が闇を照らすのだ。法然に感じられるたとえようもない人格は、その選択をえて、微塵もゆるがぬ姿なのだろう。そのような人格を、古い天竺では仏陀といったと聞く。仏陀とは、覚者のことであり、眠りから目覚めたひとのことでもあるらしい。~阿弥陀仏も、もともとは人であった。悟りをもとめ、大きな誓いをたて、そしてついに真理に目覚めて、大いなる光明に照らされ、みずからも光をはなって人々をみちびく存在を、仏、というのではないか。そうだとすれば、目の前の法然は、人でありながら、じつは覚者であり、仏であるといえるのかもしれない。」

感動した範宴は法然に師事することになる。たくさんの書物を読み、夜を徹して議論しても得られなかった感動を、法然の言葉を聞き、得たのだ。

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