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生体と信条

2月6日付中国新聞、辺見庸さんの随筆が載っていた。

シリーズ“水の透視画法”である。

いつもの様に30センチ四方の枠は文字で埋め尽くされている。私は気を引き締めて一字一句咀嚼しながら読み進めていく。

読み手が息苦しくなるほど、自分の心情を素直に吐露する辺見さんの文章は、物事を考え直すきっかけを与えてくれる。

今回の随筆は、病院の検査台に乗っているときの想いを次のように書かれている。

~「死はこの生の自明にして直近の前提である」。そのようにいくどとなくおもいなしてきた自分の台上の狼狽振りがいかにもおかしかったのである。いまのうちから死になるたけなじんでおけ、といいきかせてきた自身の、<生体>と<信条>とのあっけないほどの離反が、いまさらこっけいにおもえたのだ。生体としての自分は、たぶん、なにほども思想からは影響されず、ただ自立的に、あるいはほとんど利己的に生を燃やそうとする。そんな生体を<おい、この期におよんでさもしくはないか>といぶかしく見ている意識が私にはあるけれども、結局は剥き出された生体自体の必死さと迫力には負けてしまうのだ。~

普段、頭で考えていることを<信条>とするなら、究極の状態におかれた想いは<魂の想い>ということになるのだろうか?生きたいと、辺見さんは病院の検査台の上で悟ったというのだ。

いろんな修羅場を見てきた辺見さんですらこういう想いをするのだ。軟弱に生きてきた私は、同じ状況におかれたら、どんな精神状態になるのだろうか?

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