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ミルバーグ公園の赤いベンチ

1月9日付中国新聞に“生と死の際から 辺見庸さんに聞く ”というタイトルの記者の記事があった。

辺見庸さんについては、『もの食う人びと』という小説で賞をとったということぐらいしか知らなかったが、この記事を読んでいくうちにどんどんひきこまれていった。

 

病室で書き上げた最新刊『たんば色の覚書-私たちの日常』は、生と死を透徹したまなざしで見詰める短編小説や凝縮された思考の断想で成り立ち、書名の『たんば色』は、『胆礬』という硫酸銅の透明な青の印象から取られ、辺見さんは米軍の空爆が続くアフガニスタンで見た青空を想起するという。「まるで天空に湖がひろがっているような、アフガンの空って本当にすごいんだけどさ。でもその空の下で展開されている光景は、すさまじいものなんだな。・・・・」

病院で辺見さんは、自らの生と死を見詰めながら、他者の死を執拗に思い巡らす。「生きることは時として死以上の苦行でもある。だが死ぬまでは何としても生きなければいけない。これはある種の大発見だった。誰しも生の帰結は死なのだが、そこまでは生きなければならない。その事実の圧倒的な凡庸さに、ひどく打たれた。」

同書で辺見さんは繰り返し、死刑についての思考を重ねる。「生体は思想や論理を超え、やみくもに生きようとする。死を覚悟しても、処刑の前には収拾がつかないほど暴れるのが、ナチュラルな生体の反応だ」「病院では、娑婆の世界への窓口はテレビだろ?たまに見ると、体が痛んだ人間の存在など一切関係なくゲラゲラ笑っている。狂っているように見えるんだ。人の痛みなど、関係ない世界なんだよな。死刑にしても、ごみ処理を委託するように黙契によって国家に委ね、毎日が死にさらされる存在のことなど思い巡らしもしない」

「清冽な青こそが人を“正気で殺す”」と辺見さんは書く。日常を覆うこの“醒めた狂気”から、人間が身をひきはがしていく方途はあるのだろうかと記者は書く。

そして、そこはおそらく、辺見さんが病室で書き上げた掌編小説『ミルバーグ公園の赤いベンチ』の風景に見えてくる・・・、と書く。「世間では無用とされるような、微妙で形をなさないものに、ぼくは今いとおしさを感じる。そこにこそ、人が生きていくための、かすかな光があるのだと思う」

 

記者に対して語る、辺見さんの研ぎ澄まされた言葉は胸に刺さるように入ってくる。この感覚は何処かで感じた。どこだろう? そうだ、夫Nが入院していた病院の駐車場だ!

その頃、仕事をしていた私は毎日仕事の帰りに見舞った。車の中で感情を切り換えないと病院に入れなかった。時には、30分以上も車の中にいたこともあった。

その時、私は『ミルバーグ公園の赤いベンチ』に座って海を見ていたのかもしれない。

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