ヤブツバキ
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いつか夫Nが“死刑制度をどう思う?”と聞いてきたことがある。
その時は即答できなかった。今までの私だったら“人の命を奪ったら自分の命で償うのは当然、身内が殺されたら、あだ討ちが出来る江戸時代の方が利にかなっている”等と言っていたかもしれない。
今の私の考えは死刑制度廃止の方に固まってきている。
この世に生を受けた命はどんな命も重く、重さに差はない、条件付の重さはあり得ない、奇麗事のようだが、そう思うようになった。
人が存在する事に意味はないとある哲学者は言う。意味のない存在に理由のある“死”があるのだろうか?生きて、そして死ぬ、死も生なのだとも言う。
罪を犯したら償わなければならない。それは当然だ。だが、“命”を摘み取った人の“命”を人がまた摘み取る。人が人の“命”を絶つのに変わりはない。罪を犯した人は、生きて苦しみ、償い、生を終えなければならないと思うようになった。
最近、死刑が執行されたというニュースが多くなった。
作家の辺見庸さんが新聞の対談で語っていたことが思い出された。(鳩山邦夫法相が死刑執行について『自動的に進んでいけば』と発言したのは、辺見さんの入院直後だった)「ドキドキする思いで、その言葉を聞いた。生体の、生きている体の痛みに一切の想像力を持てない人間がいることに、病院にいると、ぞっとするほどのリアリティを感じた」
人は生まれたら死ぬまで生きるしかない。死んだ方がましだと感じる生もあるだろうが生きるしかないのだ。生きることに不条理を感じても生きるしかないのだと思う。
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ネズミモチ
モクセイ科、名前の由来は実の形がネズミの糞に似ているから、タマツバキという別名がある。
シイノキの分布と一致しているという。
熟した黒い果実がアッというまに小鳥に食べられてしまった。見かけはよくないが余程美味しいのだろう。花は6月頃白い可憐な花が咲く。
クロガネモチ
もちの木科、樹皮からトリモチをとるという。
この赤い果実は我が家の庭でいつも最後まで残っている。みかけほど美味しくないのだろうか。
気が付くと木蓮の木の根元に万両の木が生えていた。
植えた覚えがないのに・・・。
野鳥のプレゼントに違いない。
庭のあちこちにそれとおぼしきものが成長している。
いろんな条件が偶然に重なってこんな立派な実をつけている。自然の生命力、連鎖の巧みさに驚かされる。
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岩国市の出直し市長選は10日、投開票され、福田良彦氏が当選した。
日本の将来にとって重要な選挙なのに情報が殆ど入らず、マスコミも放送しない、新聞で情報を得るだけだが終わってみると2人の主張の焦点が合わない、市民にとってはっきり白、黒をつけにくい選挙だったように思う。
福田氏はここまで市政を混乱させた自公の支援を全面に受け、またもやアメとムチのアメを市民の前にちらちかせ、揺れる市民の想いを抜き取った。そして、民主党不在の選挙だった。
国が地方自治を尊重して対応していれば、顔の方向が良く見えない福田氏の掲げる、市街地活性化、教育や福祉充実などの公約は井原氏のリーダーシップのもとに実現できたはずである。
福田氏の当選を聞いて、厚木爆音訴訟団原告の“米軍再編の名のもとで機能強化されるのではないか”という思いが頭をかすめる。
“第四次厚木爆音訴訟は、過去三度の訴訟とも国の賠償が認められ、負担を軽減するために米軍再編計画で艦載機の岩国移転が盛り込まれたという。移転の目標は2014年。歓迎し、騒音軽減を期待する住民も少なくない。しかし、政府はその後に基地を返還、縮小する計画を示していない。「米軍は、厚木と岩国との間をひっきりなしに行き来し、二つの基地を自由に使うだけではないか」。「どちらも機能強化され、両方の住民が騒音に苦しみ続けるのでは。だからこそ岩国に苦しみを転嫁したくない」”という思いである。
これだけの僅差ということは、住民にとって相当の苦渋の選択だったのだろう。岩国の住民は基地城下町になりたくないのだ。民意は僅差に見えている。
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1月28日の中国新聞の“いきもの変動”という記事を読んだ。
瀬戸内海は波も穏やかであまり荒れることがない。それ故、海も湾の水温も平均していると思っていた。だが、水深の浅い広島湾は冬場、外気温の低下などで水温が8、9度まで下がるらしい。比較的暖かい海域を好む魚には住みづらい海だったらしい。
ところが、瀬戸内海の暖水化と足並みをあわせるかのように、広島湾も水温10度を下回る日数が減ってきており、その為か、今まで広島湾には「いない魚」とされてきたホシササノハベラに、産卵期の冬場、広島湾中央で命をはぐくんできたアイナメの営みが脅かされているという。
水産総合研究センター瀬戸内海水産研究所員は「魚たちが告げている異変の要因を探っていかないといけない」、暖海魚の北進がもたらす水産業や生態系への影響、有毒魚による人的被害を懸念しているという。。
陸地の変動がいきものの変動に影響を及ぼしているのだろうか?
おりしも、瀬戸内海とは距離があるが鹿児島県西之表市沖の馬毛島のほぼ全域を所有する会社が、岩国基地移転予定の空母艦載機部隊が実施する夜間離着陸訓練(NLP)などの恒常的な施設をめぐり、誘致に動いているという。
日本各地で環境への影響を度外視した動きがでている。海に囲まれたこの島国の将来はどうなるのだろうか。
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中国新聞によると1月29日、岩国市の市民団体(市内のボランティア団体、NPO法人岩国パソコンの会など12団体)が出直し市長選の立候補者を対象にした公開討論会を企画し、立候補を表明している前市長の井原勝介氏と自民党の前衆院議員の福田良彦氏の両陣営に参加と協力を申し入れたという。
代表世話人は「それぞれの主張をそろって聞ける場を市民に提供したい。急な企画だが、実現したい」と意気込んでいた。
だが、2月1日の中国新聞によると同市民団体は31日、「立候補者の了解が得られなかったため、討論会を断念する」と発表した。市民団体によると、井原氏の陣営から了解を得られたが、福田氏の陣営は「せっかくの申し入れだが告示前には時間が取れない」などと参加できない意向を伝えてきたという。
がっかりである。告示前にそれぞれの主張を生の声で市民に伝え討論し、理解してもらう絶好の機会を逃したのである。この件より時間を取るどんな重要なことがあるのだろう。
“正体を見たり、枯れ尾花”である。
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1月9日付中国新聞に“生と死の際から 辺見庸さんに聞く ”というタイトルの記者の記事があった。
辺見庸さんについては、『もの食う人びと』という小説で賞をとったということぐらいしか知らなかったが、この記事を読んでいくうちにどんどんひきこまれていった。
病室で書き上げた最新刊『たんば色の覚書-私たちの日常』は、生と死を透徹したまなざしで見詰める短編小説や凝縮された思考の断想で成り立ち、書名の『たんば色』は、『胆礬』という硫酸銅の透明な青の印象から取られ、辺見さんは米軍の空爆が続くアフガニスタンで見た青空を想起するという。「まるで天空に湖がひろがっているような、アフガンの空って本当にすごいんだけどさ。でもその空の下で展開されている光景は、すさまじいものなんだな。・・・・」
病院で辺見さんは、自らの生と死を見詰めながら、他者の死を執拗に思い巡らす。「生きることは時として死以上の苦行でもある。だが死ぬまでは何としても生きなければいけない。これはある種の大発見だった。誰しも生の帰結は死なのだが、そこまでは生きなければならない。その事実の圧倒的な凡庸さに、ひどく打たれた。」
同書で辺見さんは繰り返し、死刑についての思考を重ねる。「生体は思想や論理を超え、やみくもに生きようとする。死を覚悟しても、処刑の前には収拾がつかないほど暴れるのが、ナチュラルな生体の反応だ」「病院では、娑婆の世界への窓口はテレビだろ?たまに見ると、体が痛んだ人間の存在など一切関係なくゲラゲラ笑っている。狂っているように見えるんだ。人の痛みなど、関係ない世界なんだよな。死刑にしても、ごみ処理を委託するように黙契によって国家に委ね、毎日が死にさらされる存在のことなど思い巡らしもしない」
「清冽な青こそが人を“正気で殺す”」と辺見さんは書く。日常を覆うこの“醒めた狂気”から、人間が身をひきはがしていく方途はあるのだろうかと記者は書く。
そして、そこはおそらく、辺見さんが病室で書き上げた掌編小説『ミルバーグ公園の赤いベンチ』の風景に見えてくる・・・、と書く。「世間では無用とされるような、微妙で形をなさないものに、ぼくは今いとおしさを感じる。そこにこそ、人が生きていくための、かすかな光があるのだと思う」
記者に対して語る、辺見さんの研ぎ澄まされた言葉は胸に刺さるように入ってくる。この感覚は何処かで感じた。どこだろう? そうだ、夫Nが入院していた病院の駐車場だ!
その頃、仕事をしていた私は毎日仕事の帰りに見舞った。車の中で感情を切り換えないと病院に入れなかった。時には、30分以上も車の中にいたこともあった。
その時、私は『ミルバーグ公園の赤いベンチ』に座って海を見ていたのかもしれない。
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