白と黒の世界
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通常国会が始まった。
今日も台所仕事をしながら国会中継を聞いている。
昨日の鳩山さん、今日の興石の代表質問は力強かった。いちいち最もだった。今までの鳩山さんは、いつも押しが弱かった。育ちのせいかなと・・・・。
民主党の案を本当に実行に移してくれるなら、推進してくれるなら、国民にそう思わせてくれるなら今の自民党に勝てるだろう。
民主党はよく「直近の民意」というフレーズを使うようになった。やっとモノを言う、言える参議院になった。決してねじれ国会ではない、やっと正常になったのだ。
「直近の民意」という言葉が自民党にジワジワと効いてくるだろう。
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新年に入って中国新聞でシリーズ『IWAKUNI迫る爆音 変容する地域』を連載していた。
“動き出す住民”というテーマでは、「『厚木』を持ってきてもいいときめられたのは、基地負担の大きさをきちんと主張してこなかったからだ」と、年の瀬に同基地では初の騒音訴訟が動き出したという事を取り上げていた。
基地に協力的な街と見られていた岩国だが、在日米軍再編を機に、基地に対する住民意識の底流が変化してきているのを実感しているという原告の一人は、騒音軽減の願いを託した沖合い移設が基地機能強化を招いたという。「裏切られたとの思いから、住民も基地との付き合い方を考え始めた。これから原告も集まるはずだ」と。
また、『もう黙っていられない』と市民集会に加わった主婦はそれでも複雑な思いがあるという。「基地に勤めている人も艦載機移転容認の人もいる。近所ではまだ、この話をしてはいけないような気になるんです」と。
“基地城下町”というテーマでは、容認派の思惑を取り上げている。「企業が元気になってこそ街が反映する」。期待するのは、米軍再編で負担が重くなる自治体に国が出す『再編交付金』を活用した公共事業だ。「これほど巨大な基地の撤去はありえない。存在する以上は最大限に活用すべきだ」と。
“再編後の姿”というテーマでは、第四次厚木爆音訴訟団の原告の思いを取り上げている。過去三度の訴訟とも国の賠償が認められ、負担を軽減するために米軍再編計画で艦載機の岩国移転が盛り込まれたという。移転の目標は2014年。歓迎し、騒音軽減を期待する住民も少なくない。しかし、政府はその後に基地を返還、縮小する計画を示していない。「米軍は、厚木と岩国との間をひっきりなしに行き来し、二つの基地を自由に使うだけではないか」。「どちらも機能強化され、両方の住民が騒音に苦しみ続けるのでは。だからこそ岩国に苦しみを転嫁したくない」。騒音被害を身近に知るがゆえのジレンマは続く・・・と。
国の思惑のもと、地方自治が成り立たなくなっている。住民も自分たちの生活、立場を守るために二分され先が見えない状態だ。2月の市長選でどんな結果がでようと、情報公開や議論は今よりもっと必要になってくる。
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ねじれ国会の弊害という言葉を良く自民党議員やマスコミから聞くが、ねじれ国会はそんなに国民にとってよくないのか日ごろ思っていた。
そんな中、中国新聞の論壇リポートで東大名誉教授の篠原一氏の「世界」での論文の一部が載っていて興味深かった。
「ねじれ国会の下では、与野党が徹底的に『討議』を重ねなければ政策が実行されない。問題の調整と解決は必ずしも容易ではないが、すくなくとも合意獲得のために努力すること以外に方法はない。これがデモクラシー本来の姿である」と評価する。また、「国会で民主的討議が反復されるときは、主権者たる市民の出番のときである。懸案の争点について市民の意見が求められるはずだ。国会にとってのチャンスはまた市民社会にとってのチャンスである。」と、市民のさらなる政治参加と成果に期待をかける。
だが今回、ねじれ国会のもと衆議院で簡単に再可決してしまった。国会は話し合いの場にならなかった。
参議院での野党多数のねじれは一番新しい民意である。それを郵政民営化の是非だけを問うて得た衆議院の多数で再可決してしまったのである。
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薬害肝炎被害者救済特別措置法が11日参院本会議で全会一致で可決、成立した。
スピード成立である。これを受け、山口代表は「全面解決への土台ができたと高く評価しているが、薬害の真相究明や再発防止などが実現されるまで今後も監視していく」と述べた。
笑顔ではあるがまだまだ緊張感のある言葉である。今まで紆余曲折あり、高く険しい山だったからようやくとの思いがあるのだろう。
それにしても、いままで原告に対し国民の生活、健康を守る側の厚生労働省のやってきたことはこのまま見過ごされていくのだろうか?
胸の中にモヤモヤとしたものが残っているままだ。
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今年のおせちはおいしく出来た。くりきんとん、ゴマメ、黒豆、煮しめ、などなど。
殆ど手作りだ。夫Nが出来合いの味を好まないので毎年頑張って29日頃から作り始める。今日でだいたい食べ終わった。毎日、火を通してなんとか食べきった。
最近、とみに食べ物を大切に扱おうという気持ちが強くなった。健康の為でもあり、もったいないという気持ちもある。そしていつも私の頭の中のどこかにこの言葉があるせいでもある。
「おにぎりが食べたい」といって亡くなった北九州市の男性の言葉だ。
生活保護を打ち切られ、体をこわし働くこともできず亡くなった男性だ。
この飽食の日本、といっても限られた人をさすのだろうが、この国でこの状態で亡くなった人がいる事実。
働かず、税金を納めない人は国民ではないという事なのだろうか。生活保護はこういう人のためにあるのではなかったのか。
でも、これは人事ではないのだ。明日はわが身になる可能性は充分あるのだ。自分の将来は誰にもわからないうえ、国は、国民の生活の最低限の文化的水準を保証してくれないことがわかったからだ。
政治家は、こんな状態で亡くなった国民をだして恥ずかしくないのだろうか?
自分たちの失政のせいなのに。
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