秋の味覚・・・さんまを生で
いつもは買わずに通り過ぎるのだが、食わず嫌いもなんだから買ってみようと思い、手にとって良くみると、身も引き締まっていて色もいい、値段もこれで398円。
瀬戸内の島にある店なので、魚介類は新鮮で低価格なのは当然なのだが、さんまの生だけは手をだしていなかったのだが、・・・・。
早速帰って、昼ごはんに夫Nに試食させる(ウフッ)と、「うん、うまい、食べてごらん」と言うので、それではと食べてみると、びっくり、新鮮なさんまのおすしってこんなに甘いのかと感動物の味、歯ごたえもアジと違い柔らかい、アジのにぎりに匹敵する、いやアジよりマグロの赤身に近いかもしれない。
50数年生きてきた私の初物体験、次はどんな出会いがあるのやら。
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郷愁・・・・食用菊
開けてみると、食用菊、枝豆、梨の新興等がたくさん入っていた。
一瞬、20年前に戻ったような錯覚を覚えた。亡くなった母もよくいろいろな季節のものを送ってくれた。「東京では売っていないだろうから」といいながら、故郷の匂いのするものを季節ごとに送ってくれたものだった。
それを今、姉がかわりに送ってくれる。感謝しなくては!
菊の袋の封をきると、懐かしい菊の香りがただよってきた。あーこの香りだ。それと同時に、母の「皆でヘタをとって!」の一言で、姉妹で籠いっぱいの菊のヘタをワイワイ言いながら取ると、母がそれを台所で湯がき始める・・・・そんな思い出でが、次々と浮かんできた。
早速、お浸しを作ってみた。ヘタを取った菊のはなびらを、沸騰してお酢を少し入れた鍋の中へ入れ、すぐ取り出す。それを水に浸けず、自然に水気を切り、少し絞ってたものを、芥子醤油、わさび醤油、マヨネーズと醤油それぞれ好みのものを付けて食べる。お酒のつまみにもとってもよく合う。
秋の味覚に、食用菊もあるということ、それよりなにより母の愛情を思い出させてくれた、姉の荷物だった。
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おいしい!栗の渋皮煮
採れたての栗をたくさんもらった。
そこで、まずは定番の栗ご飯を作ったのだが、まだ大分残っているので、前から作ってみたかった渋皮煮に挑戦してみた。
出来上がりはご覧の通り、外見もまあまあ、味も最初にしては上出来で、評判もすこぶる良かった。
夫Nの感想は、“和製マロングラッセ”との事。
作り方は、鬼皮をむいた栗600gを、たっぷ゜りの水に一晩つける。
鍋に、栗とかぶるくらいの水、重曹大匙1を加え、弱火で10分くらい加熱したのち煮汁を捨て、そのまま流し水につけ、すんでくるまで流し水につけながら渋皮のすじをとり洗う。
この動作をもう2回繰り返し、鍋に、栗、ひたひたの水、砂糖150gの1/3を入れ、弱火で10分ほど煮て冷ますをもう2回繰り返し、一晩煮汁につけて出来上がり。
来年、また作ってみようと思う程美味しかった。
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新聞連載小説“親鸞” その3 選択本願念仏集
綽空は、法然が授けた名善信に改名。師の教えを進めるべく吉水を離れる。
その行動について、叡山にいた時の師慈円と、一緒に修行した良禅が想いを巡らす。
「法然は、区別なく、という立場で人々に念仏を説いております。富者、貧者の区別なく、善人、悪人の区別なく、僧侶、俗人の区別なく、戒、破戒の区別なく、男、女の区別なく、すべて念仏することで救われる、と~しかし、それは法然のたてまえではないか、とわたくしはおもっております。選択とは、きちんと区別をするということではございませんか。本心は選択本願念仏集に。~強きもの、富める者、身分の高きものたちを区別して、世間の大多数の貧しきもの、弱き者たちを念仏ひとつで救おうというのが法然の真意ではありますまいか。悪人ですら往生できるのだ。いわんや善人はもちろんのこと救われる、法然はいったと聞きますが、本心はその逆かもしれませぬ」
これは、わたくしの推測でございますが、と、良禅はいう。「善信は、法然という師の、もっとも忠実な受け手となろうと決意したのではございますまいか~善信ひとりが、吉水をはなれるというかたちで、師の教えを受け継ごうとしているように思われてなりませぬ~師の法然の示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」
「さらに一歩とは?」と慈円。
「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます~善人悪人の区別をつけないということは、この世に生きるすべてのものは、だれもみな心に深い闇をいだいて生きている、ということでしょう。それを悪とよんでもよい。~真におそれるべきものは、あの善信が語っている言葉なのです。われらはすべて悪人である、と彼は人々に説いております。」
慈円は良禅にたずねる。「善信は、どこで、どのような者たちにそれを語っているのか」
「彼は辻説法はいたしませぬ。寺や、市場で人をあつめることもしない。ただ、ひたすら歩き回って、さまざまな顔見知りの男女とはなしをかわすだけです。~きいたところでは、念仏すれば死んだら浄土へいけるか、ときかれて、さあ、いったことがないからわたしにはわからん、と答えたとか」
慈円はそれ以上、なにもたずねようとしなかった。
この良禅という人物が実在するのか判らないが、この問答が今でも頭に残っている。五木さんも書きたかった事の一つではなかったのではないか。
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政権交代の風の残した遺物
いやーびっくりしたな!
まさかここまで自民党が議席を減らすとは・・・・・。それにしても、フジの議席の出口予想にはまいった。菅さんの目がうつろだったな。
選挙区で敗れたにもかかわらず、比例重複で次々と当選してくる国民がNoを叩きつけた張本人の遺物たち。比例名簿に条件はつけて欲しかった。過去、内閣に入っていた人や三役に入っていた人、解散時の選対委員長、総裁経験者だ。その点、古賀さんは恥を知っていたのかも。
公明党は小選挙区では全滅だったが、自分たちの数はしっかり読めていた。その為、比例重複はしなかったが、それがあだになったようだ。ここまで投票率が上がり、自民の票が民主に流れるとは思っていなかったのだろう。公明党はこれが限度なのかもしれない。
さて、民主党だが、二つの組織を目指すという。
首相直属の予算編成などの司令塔として、党幹部が担当閣僚を兼ね、官民から広く人材を集める「国家戦略局」、全ての予算や制度を精査し、無駄をなくすことで財源を生み出したい「行政刷新会議」だ。各省庁に100人の国会議員を送り込む構想と併せて「政治主導」をアピールする狙いなのだという。
とにかく、情報公開を基軸にして頑張ってほしいと切に想う。
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政権交代の風
いよいよ第45回衆院選の投開票を迎えた。
今回に限り、マニフェストは殆ど目を通さずに決めた。大体の政策披露はわかっているせいもあるが、今回は政策うんぬんよりも、政権交代に尽きるからだ。
民主党政権になるだろし、その後もいろいろな問題が山積みになってくるだろうし、大連立構想が必ず起きるだろう。
しかし、政権交代をして、いろいろな問題を国民の目にさらし、政権与党の難しさを考えるきっかけを与え、膿をさらけださないと、この国は敗戦後のあいまいさをひきずりながら、末路をたどるような気がしてならない。
今日の民主党の新聞広告が良いので、控えておこうと思う。自民党の広告は、そのまま自民党に返したいほどひどいキャンペーンだった。
“あなたは言う。どうせ変わらないよ言う。政治には裏切られてきたと言う。しかし、あなたはこうも言う。こんな暮らしはうんざりだと。私は言う。あなた以外の誰が、この状況を変えられるのか。あなたの未来は、あなたが決める。そう気付いたとき、つぶやきと舌打ちは、声と行動に変わる。そしてあなたは知る。あなたの力で、世の中を変えた時の達成感を”
さてと、家事を済ませたら投票に言ってこよう。自分の最低限の“権利”を行使するために。
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新聞連載小説“親鸞” その2 法然との出会い
毎日欠かさず連載小説“親鸞”を読んでいる。五木さんの文章がわかりやすく、また次の展開を期待さすようなその日の終わり方で、一日のはじまりの楽しい時間になっている。
浄土真宗と聞いてまず思い浮かぶのは、“他力本願”、そのくらいの知識しかなかった私だが、どういう意味をもっているのかも良く解らない。そこで、五木さんの文章で心にとまった所を写してみようと思う。
“吉水の草庵”に集まる人々に向かって語る親鸞の言葉「~阿弥陀仏という仏さまは、この世に生きる哀れな者たちを決して見捨てない、と固く誓われた仏さまじゃ。~わたしは若い頃からたくさんの書物を読んだ。しかし、どうしても納得がいかず、別所の聖となった。そして、ある日、一冊の書物のなかで、はじめてこの阿弥陀仏の誓いを知ったのじゃ。そのときわたしの心と体は、雷に打たれたように震えた。~わたしは大声でその仏の名を呼んだ。感激のあまり、思わず拝んでしまったのだ。南無、阿弥陀仏、とな。~多くの世の母親のなかから、ただ一人の自分の母親と出会う幸せを、選択、という。そしてこの世の哀れな者を一人のこらずすくうぞ、という阿弥陀仏の誓いを、本願という。そのみ仏の本願を信じて、思わず体の奥からもれてる声、それが念仏というもの。声にださねば人にはとどかぬ。ましてみ仏には。ああ、阿弥陀仏さま、あなたさまのお誓いを信じます。そしてひとすじにおまかせします。と誓う言葉が念仏じゃ。仏の誓いと、人の誓いとが触れ合えば、この闇の世に光がさすことは必定。その光に照らされて、はげまされて、われらは生きていくのじゃ。死んでいくのじゃ。~」
吉水で法然の言葉を聞いた日から範宴は毎日草庵に通い、次のように思う。「法然は、万巻の経典の中から、一行の言葉に触れて阿弥陀仏という仏と出会ったという。そして、これまでに学んだことのすべてをなげうって、阿弥陀仏に帰依した。それを法然は、選択、という言葉で語っていた。選択とは、多くのもののなかから一つを選び取ることだ。いや、それだけではない。選択とは、みずからが選び取ったということだけではなく、むこうから選び取られた、という事実も大事なのではないのか。選択とは、選別ではない。~すくわれたい、という願いと、すくいたい、という願いが触れ合って火花が散る。そこにうまれた光が闇を照らすのだ。法然に感じられるたとえようもない人格は、その選択をえて、微塵もゆるがぬ姿なのだろう。そのような人格を、古い天竺では仏陀といったと聞く。仏陀とは、覚者のことであり、眠りから目覚めたひとのことでもあるらしい。~阿弥陀仏も、もともとは人であった。悟りをもとめ、大きな誓いをたて、そしてついに真理に目覚めて、大いなる光明に照らされ、みずからも光をはなって人々をみちびく存在を、仏、というのではないか。そうだとすれば、目の前の法然は、人でありながら、じつは覚者であり、仏であるといえるのかもしれない。」
感動した範宴は法然に師事することになる。たくさんの書物を読み、夜を徹して議論しても得られなかった感動を、法然の言葉を聞き、得たのだ。
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